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ジャニーズJr.とタレント育成方針



未来のアイドルを目指すアイドル予備軍をジャニーズJr.として育成している。またジャニーズ事務所では、他の多くの芸能事務所と同じく育成に伴うレッスン料は一切徴収していない。そのため、デビューできた後でも、ある程度のステータスを確立するまでは、タレントに支払われるギャラは少ないと言われている[要出典]。

デビューするまでは、たとえ単独でコンサートを行えるほどの人気があっても、マネージャーはつかない。仕事の移動も送迎は一切行わず、各々が電車などで移動する。事実、滝沢秀明がジャニーズJr.時代に、連続ドラマに主演していたときも、マネージャーはおらず、滝沢本人が電車で移動していた。現在はジャニーズJr.担当のマネージャーもいるが、人気のJrに限ってマネージメントしてくれる。ただし掛け持ちのため送迎程度で帰ってしまうことが多い。

ジャニーズ事務所では、社長に認められればいきなりテレビ出演もかなうため、下積み時代(テレビなどに出られない時期等)が少なくても人気が出るチャンスが多いが、「若いうちから売れたとしても、甘やかさない」という事務所の方針で徹底管理されている。

また、「学業と芸能活動を両立できないものは、仕事をさせない。」というポリシーがあり、原則として芸能活動のために学校を休むことを禁止している。そのため、芸能活動をしながら高校や大学を卒業しているタレントも多い。ただ、芸能活動と学業の両立ができないと判断して、高校を中退したり、進学をしないタレントもいる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジャニー喜多川



ジャニー喜多川(ジャニーきたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1928年10月23日 - )は、日本の実業家・芸能プロモーターで、ジャニーズ事務所ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーションの社長である。

ロサンゼルス生まれで日系二世。日本に帰化後は一時、和歌山県和歌山市に在住していた。

来歴・人物
真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院の僧侶・喜多川諦道(1946年から1949年まで、プロ野球チーム「金星スターズ(元・ゴールドスター)」のマネージャーだった人物) の次男として、1928年10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。母親は幼少時にアメリカで死別している。ちなみに子供の頃のあだ名は「ヒー坊」だった。
太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により、父、姉(メリー喜多川、当時の本名: 喜多川泰子)、兄(あだ名は「マー坊」。NASAでアポロの設計もしていた科学者だったが現在は故人)、そして弟と共に、カリフォルニア州内に抑留されるが、1942年6月18日の第一次日米交換船で帰国した。
終戦まで日本で過ごし、両親の出身地・和歌山県和歌山市に在住していた。しかし、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼け出される。戦後は姉とともに再渡米、ロサンゼルスの高校を卒業。
そして1952年、陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員として、ロサンゼルス市立大学を卒業した姉と共に日本に再帰国する。米軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教える為に、日本で僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国の板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供達に英語を教えた。日本への帰国後は、アメリカ大使館で軍事顧問団に勤務。
その後、上智大学国際部に進学し、卒業。大学在学中の1955年にバンドを結成し、芸能界へ参入。

ジャニーズ事務所の設立
1960年代初頭、ジャニー喜多川は自分の住んでいた東京の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」(現在は代々木公園)にて、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていた。そのチーム名は、喜多川擴のアメリカ国籍での名前「ジャニー」からとって「ジャニーズ少年野球団」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣らも居り、応援団には松島トモ子までもが居た。しかもプロ球団や力道山などに支援されていて、練習場も後に池袋の立教大学のグラウンドへと移行した。ある日、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選び、映画館に連れて行く。そして、そこで観た『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興そうと決意する。そしてこの4名の少年で、最初のグループであるジャニーズを1962年4月に結成。最初は池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に籍を置いていたが、1962年6月にジャニーズ事務所を創業。1975年1月になって正式に株式会社として法人登記される。
姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。
事務所の黎明期には、フォーリーブス・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJIなどで正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。


男性タレントに対するセクハラについて
ジャニー喜多川が同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的嫌がらせ・性的暴行、および同性愛行為の強要を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されていた。

ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントはジャニーズ(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)だったが、彼らが所属していた芸能学校(新芸能学院)から離れる際、ジャニー喜多川とオーナー間で引き抜きを巡るトラブルが裁判まで発展。オーナーは、彼らがジャニー喜多川による「性的嫌がらせ・性的暴行による引き抜き」であることを法廷で明らかにした。それを『女性自身』(1967年9月25日号)が報じている。[1]。この訴訟では、ジャニーズの4人も証言台に立っており、証言記録は『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社)で再現されている。

なお、同書では「同性愛」という表現自体を否定しており、性的嫌がらせ・性的暴行である以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。

元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば!!光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、平本淳也は『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)を上梓し、セクハラの実態を暴露した。

1988年から1989年にかけては、月刊誌「噂の眞相」もこの問題を数回取り上げた。1999年には、週刊文春がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対してセクハラを行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は、名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。

なお、自民党衆議院議員・阪上善秀(現・宝塚市長)が2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている。


裁判
2002年3月27日の一審判決ではジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。

2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側のセクハラ行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このためセクハラ部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償とセクハラ行為認定が確定した。

オカルト批判団体・ジャパン・スケプティクスの機関誌『NEWSLETTER 53号』では、当時同会の副会長だった草野直樹がこの問題に言及。芸能マスコミが、判決について一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という理由を書かなかったことを批判。「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている」とし、報道におけるタブーのベールを抜いた報道は、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう、と訴えて話題になった。(鹿砦社『ジャニーズスキャンダル調書』より)

また、ニューヨーク・タイムズ、オブザーバーなどの海外メディアでも大々的に取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を批判した。


受賞
2003年、菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞 (但し授賞式には堂本光一を代理人として行かせた。)

参考書籍
ジャニーズ・ファミリー - 裸になった少年たち - (和泉ヒロシ著、1976年6月、オリオン出版)
ジャニーさん (鶴田康文著、1990年3月、データハウス)
ジャニー喜多川さんを知ってますか (江木俊夫著、1997年7月、KKベストセラーズ)
ボクの夢はキミたちが描く夢~ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち (あおきひろし著、1999年8月、メタモル出版)
平成の芸能裁判大全 (芸能裁判研究班著、2003年10月、鹿砦社)
芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術 (小菅宏著、2007年3月、講談社)
ジャニーズスキャンダル調書 (ジャニーズ特別取材班&芸能裁判研究班共著、2007年11月、鹿砦社)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

ジャニーズ事務所



株式会社ジャニーズ事務所(かぶしきがいしゃジャニーズじむしょ)は、日本の芸能プロダクション。

沿革・特色
ジャニー喜多川は渡米したとき、ある劇場のステージマネージャーをしており、袖口から劇を見ていて感動したという。そして帰国後、知人が野球チームを作っていたために、これを真似て自らも「ジャニーズ少年野球団」というチームを作った。そして、この中から選んだ4名の少年でジャニーズを結成させ、ジャニーズ事務所の設立に繋がった。

当初はマネジメントを渡辺プロダクションに委託していたが、1962年6月に独立して「ジャニーズ事務所」として創立。それ以降ジャニー喜多川と姉のメリー喜多川がジャニーズ王国を築き上げた。但し、元々は代表・ジャニー喜多川の個人事務所で正式名はなく“ジャニーズの所属事務所”の意でこの名を使用していた。 一般にアイドルの事務所と誤解されるが、本来はミュージカル俳優の事務所である。また、男性タレント専門事務所とも認識されているが女性も在籍していたことがある(VIP (ジャニーズ)参照)。女性のジュニアも過去にはいたが陽の目を見なかった。尚、現在は女性は所属していない。

株式会社ジャニーズ事務所
Johnny's office co.ltd

略称 ジャニーズ
本社所在地 日本
107-0052
東京都港区赤坂8丁目11番20号
電話番号 03-5413-5111(代表)
設立 1962年(昭和37年)6月創業
1975年(昭和50年)1月30日法人登記
業種 芸能プロダクション
代表者 代表取締役社長 ジャニー喜多川(喜多川擴)
資本金 80億円
主要株主 ジャニー喜多川60%
藤島メリー泰子10%
伊豆喜久江10%
藤島ジュリー景子10%
主要子会社 株式会社ジャニーズ・エンタテイメント
株式会社ジェイ・ストーム
株式会社ジェイ・ドリーム
有限会社ジェイ・ステーション
東京グローブ座
ヤングコミュニケーション
ジャニーズ出版
株式会社エムシーオー
株式会社つづきスタジオ



 
 

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